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名古屋高等裁判所 昭和34年(う)137号 判決 1964年1月14日

控訴人 原審 検察官

被告人 金本鐘得こと金鐘得 外四名

弁護人 天野末治 外二名

主文

本件各控訴を棄却する。

理由

本件各控訴の趣意及びこれに対する答弁は、岐阜地方検察庁検事正平出禾名義の控訴趣意書及び被告人田中達郎の弁護人岡本治太郎名義並びに被告人等五名の弁護人天野末治、同桜井紀共同名義の各答弁書に記載されているとおりであるから、ここにこれを引用する。

第一、本件事案の概要

本件公訴事実の要旨は

被告人等は単独又は後藤重博と共謀のうえ、内乱の罪を実行させる目的で、昭和二七年七月末頃から同年一〇月二〇日頃迄の間、岐阜県可児郡中町中、徳島炭鉱鉱業所第一坑附近ほか一六箇所において同鉱業所従業員岡田尋ほか三三名に対し、日本共産党岐阜県委員会名義をもつてせる次のような内容の文書、すなわち冒頭に「国民の党″日本共産党″は心から県民諸君に入党を訴える」と題し、「今や吾々は『愛国か売国か』『独立かドレイか』、即ち革命による勝利か屈服して自ら破滅するかの問題に立つている。道は唯一つ、武装してアメリカ占領者と売国奴共を粉砕する革命あるのみ。県民諸君に心から入党を訴える」旨、また「日本共産党の当面の要求=新しい綱領=」と題し、「(1) 吉田政府は日本におけるアメリカ占領当局の精神的政治的支柱である。日本の民族解放を闘い取るためには、何よりもまず吉田「自由」党反動政府を打倒し、その代りに新しい国民政府を樹立しなければならない。これは日本の民族解放の政府となるであろう。(2) 民族解放民主革命は避けられない。上述のことから明らかなように、日本国民は現存する反動制度の下で人間らしい生活と自由な空気を吸うことは出来ない。このことは、現存する反動制度を撤廃してその代りに民族解放民主制度を確立しなければならないということを意味する。したがつて、日本にとつては大きな革命的な変革が必要である。日本共産党は、現在の反動自由党政府に代るべき新しい民族解放民主政府が、日本の対外および対内政策において、民族独立と日本の主権を確保するポツダム宣言に基く全面講和、天皇制の廃止と民主共和国の樹立、リコール制をもつ一院制国会等の事項を実現し、これを立法化するよう要求する。(3) 革命の力-民族解放民主統一戦線。新しい民族解放民主政府が妨害なしに平和的な方法で自然に生れると考えたり、或は反動的な吉田政府が新しい民主政府に、自分の地位を譲るために抵抗しないで自ら進んで政権を投げ出すと考えるのは重大な誤りである。反対に吉田政府は自分の権力を固守し占領を存続させるため、かつ国民をいつまでも奴隷状態にとどめておくために全力を挙げて闘うであろう」旨、また「われわれは武装の準備と行動を開始しなければならない」と題し、「(1) 平和的な方法だけでは戦争に反対し、国民の平和と自由と生活を守る闘いを押し進めることはできないし、占領制度を除くために、吉田政府を倒して新しい国民の政府をつくることもできない。彼らは武装しており、それによつて自分を守つているだけでなく、われわれを亡ぼそうとしているのである。これとの闘いには、敵の武装力から味方を守り、敵を倒す手段が必要である。この手段は、われわれが軍事組織を作り、武装し、行動する以外にない。軍事組織はこの武装行動のための組織である。(2) 現在われわれにとつて一番重要なことは、武装して行動する条件が備つており、国民もそれを求めており、それなしには闘争を発展させることができないということである。したがつてわれわれは直ちに軍事組織をつくり、武器の製作や、敵を攻撃する技術や作戦などを一般化する初歩的な軍事行動から着手し、さらに軍事行動に必要な無数の仕事を解決しなければならない。情勢は日毎にわれわれの断乎たる行動を求めるのである。この情勢の中で前衛としての歴史的任務を果すために、われわれは武装の準備を行い、行動を開始しなければならないのである。(3) われわれの祖先は歴史の上でそのようなことをしてきた実例があるか。岐阜県は特にそのもつとも激しく盛んなところであつた。例えば郡上八幡の金森騒動。飛騨の本郷村善九郎の一揆、揖斐の枡盛騒動などは、その規模といい質といい、切り捨て御免の徳川三百年の封建的大名支配の歴史をクツがえした大きな力であり、日本一といえる。このような祖先の偉業を歴史の上からかき消そうと、その後の支配者たちは躍起になり、ゴマカシつづけて来たが、事実は祖先とわれわれが血で固くつながつているように、かき消すことが出来ない事実としてわれわれの血の中に生きている。この尊い祖先の業績への感謝が必要であり、それはわれわれが、アメリカの手先になつてこの尊い日本の国を売り、われわれを苦るしめている売国奴と徹底的に闘い、植民地日本を解放し、独立させることであり、地下に眠る祖先はわれわれの闘いをヂツト見守つているであろう。(4) このような力の裏付けとしての大衆の闘いを守り、発展させる武装した中核自衛隊をつくり、拡大し強化すると共に、大衆的に権力に対して抵抗する自衛団をつくりあげることなくしては達成されない。このように中核自衛隊が組織されて、隊の行動によつて大衆闘争が発展し、軍事行動が一般化するならば、それにしたがつて中核自衛隊の組織や行動も拡大され高度化される。またパルチザンや人民軍に発展することができる。(5) 武器や資金をどうしてカクトクするか。大衆闘争の中でも、これを意識的に計画すれば、必らず取れることが明らかとなつている。また札附の反動警察官らを襲い武器を奪うことも出来る。われわれはこれをおこなわなければならない。しかし武器は敵の使用しているような近代的なものだけではない。大衆の持つている刀や工作道具、農具も武器となり得るし、また竹槍や簡単に作ることの出来る武器も使用できる。したがつてまず最初は手当り次第可能なもので武装することである。その上で一方においては敵の武器を奪いとると共に、他方においてわれわれの武器を製作することである。特に敵を襲撃するために必要な輸送車用のパンク針、手榴弾、爆破装置らのような簡単なものはただちに製作することが必要である。武器について中核自衛隊は資金を必要とする。この資金もアメリカ占領軍から奪いとることが原則である」旨、また「岐阜県民は何をめざして闘うか」と題し「(1) 岐阜県民はアメリカの軍事的植民地化政策のため苦しめられている。武藤県政は県内反動勢力と結び、アメリカ占領者と吉田政府の政策に協力し、県民を苦しめている。県内の反動勢力(独占資本、特権官僚、寄生大地主、軍閥)は武藤県政とつながつて県民をほしいままに苦しめている。県民は占領制度のテツパイを要求し、民族解放民主革命をめざしている。革命をなしとげるために、県民は民族解放、民主統一戦線に結集しなければならない。民族解放民主革命は平和的な手段では出来ない。必ず実力でもつて闘わねばならない。(2) 敵は武装し、国民の利益と権利に対して暴力をもつて弾圧して来ている。特に基地を持つ岐阜は敵の主要拠点であり、警察を増加し、フアツシヨ体制を強化して来ているのもそのためである。従つてただ平和的な手段だけでは、県民の自由と平和と生活を闘いとることは出来ない。まして軍事基地をなくし、占領制度をテツパイさせることは不可能である。職場でも、町でも、農村でも、敵の暴力支配に対していたるところで、身をもつて闘つているこの闘争は国民武装を要求するところまで発展している。労働者、農民市民の利益を守り、武藤県政を倒し、吉田政府を倒し、占領軍を撤退させる民族解放の実力闘争をひろげ、高めるための努力をしなければならない。これによつてはじめて、われわれは頑強な彼等を打ちくだいて民族を解放することができる。日本共産党岐阜県委員会は、一日も早く独立自由、民主、繁栄の日本を作るため、解放の力、民族解放民主統一戦線をすみやかに強化し、発展させることを労働者、農民、市民をはじめすべての県民に訴える旨記載せる、内乱の罪の実行の正当性及び必要性を主張した文書であつて、日本共産党岐阜県委員会発行の「山旅案内」なる偽装表題を附したパンフレツト計一二七部を頒布したものであるというのである。

原判決は、右の公訴事実中、被告人田口早苗が昭和二七年八月初旬頃岐阜県益田郡下呂町大字湯之島一四四〇番地の一、中川和雄方において同人を介し、同人弟中川佳也に対し山旅案内約六〇部を頒布した事実を除き、爾余の公訴事実について、被告人等が単独又は共謀の上、内乱罪実行の正当性及び必要性を主張した日本共産党岐阜県委員会発行名義の山旅案内を、その内容を認識しながら、頒布した事実は公訴事実のとおり認定しうるけれども、被告人等には破壊活動防止法(以下破防法と略称)第三八条第二項第二号のいわゆる「内乱の罪を実行させる目的」の存在を認めるに足る証明が不十分であるとして無罪の言渡をしたのである。

これに対し検察官は本件控訴趣意において、原判決は破防法第三八条第二項第二号の文書頒布罪における「内乱の罪を実行させる目的」の解釈を誤り、かつこの点に関し重大な事実の誤認をおかしたのであつて、審理不尽、採証法則違背の譏も免れず、それらの違法が判決に影響を及ぼすことは明らかであると主張している。

第二、本件控訴趣意中論旨第一について

所論は要するに、破防法第三八条第二項第二号の文書頒布罪は一種の宣伝罪であつて、内乱実行の意識的基盤を醸成する危険性にその可罰性の根拠をもとめる、いわゆる抽象的危険犯と解すべきであるのに、原判決が「内乱の罪を実行させる目的」のほかに、公共の安全に対し、明らかな差し迫つた危険を及ぼすことが予見されることを要するものとし、同法第二条もこの趣旨を明定したものとしているのは、右の破防法第三八条第二項第二号の文書頒布罪における内乱の罪を実行させる目的の解釈を誤つたもので、この誤りが判決に影響することは明らかであるというにある。

まず原判決のこの点に関する見解を検討してみると、原判決の趣旨とするところは、破防法第三八条第二項第二号所定の文書頒布罪における「内乱の罪を実行させる目的」とは、同条所定の文書の被頒布者をして内乱罪を実行せしめようとする目的であることは言うまでもなく、言論等表現行為は、本来その表現内容に対し理解共鳴を求めんとする思想の発表行為にほかならないのであるから、内乱罪実行の正当性、必要性を主張する文書を頒布しても、その行為がなされる際の具体的な客観情勢との関連において、これにより言論等表現の自由を、その自律性の支配に委ねることの許されないような国家の基本的政治組織に対する、明らかな差し迫つた危険の招来されることの予見される場合でなければ、破防法第三八条第二項第二号の文書頒布罪は成立しない。すなわち言論等表現の自由の制限せらるべきは、具体的に明白な自由の濫用行為があり、これによつて公共の安全に対し明らかな差し迫つた危険を及ぼすことが予見される場合に限るという、かのホームス判事のいわゆる「明白かつ現在の危険」の原則が破防法の解釈の根底にあることは、同法第二条において「この法律は国民の基本的人権に重大な関係を有するものであるから、公共の安全の確保のために必要な最小限度においてのみ適用すべきもの」とし、必要最小限度の原則を規定していることによつても明らかであるというのである。

原判決は、かように破防法第三八条第二項第二号の文書頒布罪が成立するためには、同条の明示している所定の構成要件が充足される以外に、その行為によつて具体的に公共の安全に対し明らかな差し迫つた危険が予見されることを要するものとし、かような具体的危険性のある場合にはじめて右の文書頒布罪の成立をみるものとするいわゆる具体的危険説をとるもののようである。

しかしながら、おもうに破防法第三八条第二項第二号の文書頒布罪が、文書の表現内容に対し理解、共鳴を求めんとする思想の表現行為にほかならないことは原判決の説示するとおりであるけれども、その文書の内容が内乱罪という国家の政治的基本組織を暴力をもつて顛覆せんとする重大な犯罪の正当性、必要性を主張するものであつて、しかもかような文書を内乱の罪を実行させる目的をもつて頒布する行為であるから、それがわが憲法の保障する言論等表現の自由の著しい濫用であることはいうまでもなく、これにより被頒布者を内乱罪に駆り立てる危険性のあることに鑑みると、かかる頒布行為はそれ自体、当然に公共の安全を危殆ならしめるものとして、その可罰的違法性を認めても、毫も言論を不当に圧迫するものではない。そうだとすると、この文書頒布罪は被頒布者に対しその内容について理解、共鳴を求める行為であるにかかわらず、被頒布者に対する具体的な影響の有無とも無関係に成立するのであるから、原判決の説示しているような公共の安全に対し具体的に明らかな差し迫つた危険が予見されることは、この文書頒布罪の成立には必要ではないということにならざるを得ない。

原判決は所説を裏付けるために、いわゆる「明白かつ現在の危険」の原則を挙げてつぎのように説示している。「ホームス判事がいみじくも、言論を制限する基準として、明白かつ現在の危険の原則を宣明したのも、法(破防法)二条の『公共の安全確保のために必要な最少限度』と合致するところであつて、これをそのまま法第三八条第二項第二号の『内乱の罪を実行させる目的』に採つて以て適用すべきものと信ずる。即ちかかる害悪を生ずる明白かつ現在の危険がないのに、単に将来かかる害悪を生ずる虞あることを揣摩臆測して言論を制限、処罰することは民主主義の根本原則に反するからである」とし、所説にそうものとして昭和二九年一一月二四日の大法廷判決をも引用している。

しかし米国連邦最高裁判所の判例によつて認められたかのホームス判事のいわゆる「明白かつ現在の危険」の原則なるものが、民主社会において言論等表現行為を規制する基準の一つとして、高く評価さるべきことは敢えてこれを否定するものではないが、それは少くともわが国法の解釈の上では、原判決の説示するような唯一、絶対の普遍的原理とか原則とかいうべきものではなく、やはり言論等の規制の一つの基準と認むべきものであろう。このことは米法のもとにおいてすら、その「明白かつ現在の危険」の理論が形成された過程と、その発展の跡をたずねてみれば、おのずから明らかである。わが憲法第二一条ももとより言論の自由を保障し言論には言論をもつてする、言論の自律性を認める立場をとつているが、言論の保障も絶対的なものではなく、自由の行使によつて国家社会に侵害を加え、「公共の福祉」に反する場合には規制に服すべきものとしていることは言うまでもない。この「公共の福祉」という概念はあまりに抽象的であつて、その内容が明確を欠く憾なしとしないが、そうかといつてわが憲法の解釈上、米法におけるこの「明白かつ現在の危険」の理論を原判決のように、そのまま導入することにも多大の疑問なきを得ないであろう。けだし公共の福祉というのは、その言論によつて生ずる害悪の重大性、程度、近接性その他一切のものを総合的に考慮した、柔軟にして伸縮性のある観念だからである。この意味において「明白かつ現在の危険」は公共の福祉に反するか否かの決定について重要な基準の一つたるを失わないものといえるではあろうが、

しかしそれはあくまでも基準の一つに過ぎないのであつて、これをもつて原判決のように言論の規制の唯一、絶対の基準のごとく解することはいささか独断に過ぎ、実証性に欠けるものといわねばならぬ。もつとも原判決はその所説を支持するものとして前掲昭和二九年一一月二四日最高裁判所大法廷判決を引用しているけれども、最高裁判所がわが憲法の解釈上つねに言論等表現行為の規制の限界を公共の福祉に反するか否かにのみこれをもとめ、いわゆる「明白かつ現在の危険」の理論を採用していないことは、昭和二四年五月一八日大法廷判決及びこれを踏襲した幾多の最高裁判所判決の示しているとおりである。

昭和三〇年一一月三〇日の大法廷判決においても上告趣意における「自由な言論の制限の唯一の可能の原理はいわゆる『明白かつ現在の危険』の原則である」ということなどを根拠とする国家公務員法第一一〇条第一七号及び地方公務員法第六一条第四号の規定の違憲(憲法第二一条に対する)の主張を容れないで、「国家公務員に対し……怠業的行為の遂行をそそのかすことは、……公務員の重大な義務の懈怠を慫慂し教唆するものであつて、公共の福祉に反し憲法の保障する言論の自由の限界を逸脱するものである」と説示するにとどめている。もつとも最高裁判所判決のうちにも少数意見としては、この「明白かつ現在の危険」の理論を採りいれたかとおもわれる見解も散見される。昭和二七年八月二九日の最高裁判所第二小法廷判決における栗山裁判官の「実害を与える危険が充分に認められることが可罰的違法の要件である」とする補足意見や、前掲昭和三〇年一一月三〇日の大法廷判決における同裁判官の「違法行為の現実に発生する危険が充分あるという客観的事情のもとにおいてなされた」ことが必要なる旨のほぼ前同趣旨の補足意見のごときものがすなわちそれであるが、いずれも多数意見のなかには採りいれられていないことが看過されてはならない。してみると最高裁判所が言論の自由の規制の限界について、いわゆる「明白かつ現在の危険」の原則をとりいれ、これを唯一絶対の基準とする見解を採るものでないことは疑ないであろう。

なお原判決引用の前掲昭和二九年一一月二四日の最高裁判所大法廷判決(昭和二四年新潟県条令第四号違反被告事件)は、なるほど、行列行進又は公衆の集団示威運動は公共の福祉に反するような不当な目的又は方法によらないかぎり本来国民の自由であるとし、これらの行動について、公共の安全に対し明らかな危険を及ぼすことが予見されるときは、これを許可せず又は禁止することができる旨の規定を設けても違憲とはならない旨を判示しているけれども、それがまず事前の規制に関する事案であることに注目されねばならない。このような集団示威行進等の事前の規制に関しては、この判例に限らず同趣旨の最高裁判所判例も少くないが、これらの事案において、その規制を「公共の安全に明らかな危険を及ぼすときに限る」とするのは、警察法第一条が同法の目的につき、同法第二条第一項が警察の責務につき、それぞれ公共の安全と秩序にふれて規定しているので、これらの規定の文言をうけて、本来公衆が自由に行いうる集団示威行進等を警察上の措置として事前に規制しうるための基準の一つを示したに過ぎないものと解される。したがつてこの場合でも最高裁判所判例がいわゆる「明白かつ現在の危険」の原則を採りいれたものではなく、言論規制に関する最高裁判所判例に相反する二つの流があるわけではなかろう。ともあれ、本件は法律の明文によつて、すでにその行為の可罰性が容認され、しかもその法律の合憲性も肯定されているところの、いわゆる事後の規制に関する場合であるから、事前の規制に関する原判決引用の右最高裁判所判例は、本件には適切を欠くものがあるといわねばならない。原判決はさらに所説を裏付けるものとして、破防法第二条を援用し「行為者においていかに内乱の罪を実行させる意図を有していたとしても、結果発生の現実的な可能性或いは蓋然性がない限り、法第二条にいう『公共の安全の確保のために必要な最小限度』に何等の影響なく、これを超えて『拡張して解釈する』結果となるからである」と説示しているのであるが、破防法第三八条第二項第二号所定の文書を、内乱の罪を実行させる目的をもつて頒布するがごとき行為はそれ自体公共の安全を著しく危殆ならしめるものであつて、公共の安全はかかる抽象的危険に対しても十分保護に値するものであるのみならず、破防法第二条の法意は、同法罰則の解釈として拡張解釈による濫用を禁ずる趣旨のものであるから、右のごとく同条の明文上の要件から当然にでてくる結論を禁ずるものと解すべきではない。

かように観てくると、破防法第三八条第二項第二号の文書頒布罪の性質については抽象的危険説を採るべきことまことに検察官所論のとおりであるが、このことは当裁判所が検察官所論の基盤説の見解に与することを意味するものではない。いうまでもなく、この文書頒布罪が成立するためには、内乱罪実行の正当性、必要性を主張する文書を、その内容について認識しながら、これを頒布することだけでは足れりとせず、内乱罪を実行させることを目的として、その文書を頒布することを要するものとし、すなわち文書頒布罪は一般の認識犯に対しいわゆる目的犯にまで高められているにかかわらず、検察官所論の基盤説なるものは、この目的犯の核心ともいうべき目的概念を軽視する傾がつよく、かくては憲法における言論自由の保障の意義が失われ、破防法第二条が同法罰則の内容をもつて、公共の安全を確保するために必要な最少限度の規定としているその法意にも悖るおそれがあり、当裁判所の採らないところである。

ともあれ、原判決がこの文書頒布罪の性質について、いわゆる具体的危険説をとり、本罪の成立には内乱を起させる目的のほかに、破防法第三八条第二項第二号所定の文書の頒布によつて公共の安全に対し、明らかな差し迫つた危険を及ぼすことが予見されねばならぬものと解したことは同条の解釈を誤つた違法あるものというほかはないが、本件はつぎにのべるように、被告人等に「内乱の罪を実行させる目的」があつたものとは認めがたい事案であるから、原判決の右の違法は判決に影響を及ぼすことが明らかではなく、論旨は結局理由がないものといわねばならない。

控訴趣意中論旨第二について

所論は要するに、被告人等はいずれも破防法第三八条第二項第二号の内乱の罪を実行させる目的のもとに、本件文書を頒布したのであつて、被告人等がかかる意図を有していたことはこれを認定するに足る十分な証拠があるのに、原判決があえてこれを認定しなかつたのは、重大な事実の誤認であるのみならず、その事実認定に関し検察官のなした証拠申請を不当に却下した点において審理不尽を犯し、証拠の価値判断を誤り採証法則に違背したのであつて、その誤りは判決に影響を及ぼすことは明らかであるというのである。

しかしながら、そもそも破防法第三八条第二項第二号所定の文書頒布者が内乱を起させる目的をもつて頒布行為にいでたか否かは、もとより頒布者自身の主観的意図たる内面的な心理的事実にほかならないけれども、それゆえにこそ、その認定には慎重な上にも慎重を期し、言論自由の保障の見地からいやしくもいき過ぎにわたらないよう深甚な配慮が払われなければならない。破防法がこの文書頒布罪をとくに目的犯として規定しているのも、同法第二条が本法の適用について必要なる最少限度にとどめるべき旨宣言している所以もそこにあるからである。原判決が被告人等の本件文書の頒布の目的を究明するにあたり、まずその頒布当時における国内の客観情勢について、周到な考察を加えていることはこの意味においてまことに相当な措置といえよう。

そこで記録を精査し、原裁判所及び当裁判所が取調べたすべての証拠を総合し、この点に関する原認定の当否を検討するに、被告人等による本件文書の頒布当時、わが国の各地において日本共産党員やその同調者の一部尖鋭分子によるものと疑わるべき騒擾ないし集団的暴力事件がかなり発生しているけれども、それはもとよりきわめて地方的かつ散発的であつて、全国的にはむしろ、平穏と冷静が失われず、国民は民主主義と法の支配に安んじて、それほど険悪な世情ではなかつたこと原認定のとおりである。ことに本件文書が頒布されたのはいずれも岐阜県の平和な農村や小都市であつて、内乱の勃発というような不穏な形勢のごときは微塵もなかつたものと認めざるを得ない。もつとも検察官は本件文書の頒布当時、

(1)  わが国に武力革命方針をとる非公然の全国的組織が存在し、この武力革命方針に基づく軍事活動が全国各地で行われ、この組織は日本共産党と密接不可分の関係にあつたとしまた

(2)  岐阜県下においても武力革命方針をとる全国組織の下部組織があり、日本共産党岐阜県委員会も右下部組織と密接不可分の関係にあつた。

と主張しているが、原判決も説示しているように、「アカハタ」「前衛」その他検察官援用の幾多の軍事方針文書については、作成者はもちろん、その出所すら明確でないものが多く、その文書の記載内容をもつてただちに経験的事実の存否の判断とはなしがたいし、また各文書の内容の一致することなどからその背後関係まで軽々に推断することも許されないであろう。

さて進んで被告人等の本件文書頒布の目的が奈辺にあつたかについて、原認定の当否を仔細に検討するに、被告人等が検察官所論のごとく、日本共産党員又はその同調者として、岐阜県における同党の活動になにがしかの関係をもつていたこと、及び被告人等が本件文書(内乱罪の実行の正当性、必要性を主張する)の内容について認識を有していたことは原判決も肯認するところであつて、記録によると、被告人等による本件文書の頒布の状況、被告人等と被頒布者との交友、知合関係などはつぎのとおりである。

(一)  被告人金鐘得に関する事実として、被頒布者たる

(1) 岡田尋は検察官に対する供述調書において、同人は徳島炭鉱鉱業所の事務主任で、亜炭の貨車積の状況を見廻りにいき、同炭鉱第二坑で働いていた被告人金鐘得(通称金本)に会つた際「金本は想いだしたように、『事務所の人にも為になるところもあるから、読んでおいて貰おうか』、といつて一冊のパンフレツトを差しだした。『金はいくらやな』と聞きますと、『読んでみて為になるところもあるから、金はあとでよい、志でよい』と申しておりました」旨のべ、

(2) 平井久夫は検察官に対する供述調書において、「自分は徳島炭鉱のトラツクや乗用車の運転手であるが、自分が車庫の附近に立つていると、金本が近づいてきて、持つていた十数冊の薄い本のなかから、一冊を私に差しだして、『この本を読んでみてくれ』と言い、自分は代金を尋ねたように思うが、金本は『読んでみてよかつたら、五円でも一〇円でもよいからくれ』と言つて代金は貰つても貰わんでもいいという態度でそのまま行つてしまつた」とのべ、

(3) 生駒信男は検察官に対する供述調書において「自分は徳島炭鉱の運転手であるが、採炭夫の金本が昭和二七年八月下旬の昼頃、工場にいた私のところへ来て『運ちやんこれを読んでくれ』と言つて薄いパンフレツト一冊をくれた。金銭のことは何もいわなかつた」とのべ、

(4) 多田権一は検察官に対する供述調書において「自分は徳島炭鉱の雑役夫であるが、工場で仕事をしていると、後から金本が『多田さん』と呼んで山旅案内と書いた本を一冊くれて、どこかへ行つてしまつた」とのべ、

(5) 笹川茂作は検察官に対する供述調書において、「自分は徳島炭鉱の採炭夫であるが、昭和二七年八月二二、三日の昼頃、私と一緒に昼食を食べていた金本がツツと立つて、側の棚の上から厚さ一寸位の新聞の包をだして、中から一冊の本をぬきだし、『笹川さん、これ読んでみてくれ』と言つた。私はこれいくらの本かと聞くと、『いくらでも志でええ』といつたので受取つた」とのべ、

(6) 籠橋昭一は検察官に対する供述調書において「自分は徳島炭鉱の炭鉱夫であるが、昭和二七年八月下旬頃の昼、炭坑夫の灰谷司と弁当を食べていると、金が来て本を一冊目の前に出し「この本を読んでくれ、資金がないで一円でも、二円でも、五円でもいいから志があつたら出してくれ」と言つた。強いて金を請求する様子もなかつたので、そのまま貰つておいた」とのべ、

(7) 原審証人灰谷司は、「金は何か少し喋つて、こういう本を読んでくれといつたのではないかと思う。金がどうして山旅案内を呉れたかは深く考えもせず、不思議に思つただけである。自分は当時、徳島炭鉱の採炭夫であつたが、金のことはよく知らず、他に本を貰つたりしたこともなく、話をしたのも山旅案内を貰つたのが始めてである」とのべている。

これら被頒布者の供述と関係各証拠を総合し、前認定のような本件文書頒布当時の国内情勢をも併せ考えてみると、被告人金鐘得(徳島炭鉱へ就職後約一月)がこれらの被頒布者との間にとくべつな思想的つながりがあつたような形跡はさらになく、殆んど誰彼なしに相手かまわず頒布しているところからみて、同被告人の本件文書の頒布は単純な宣伝と資金カンパ(選挙目あての)の意図にいでたもので、その程度を超えた目的をもつてしたものとはとうてい認めがたい。

(二)  被告人斎藤章治に関する事実として、本件文書の被頒布者たる

(1) 二村鋭次は検察官に対する供述調書において、「自分は農業で上野第二班長をやつている。毎月一回位下呂町役場で班長会議が開かれる。昭和二七年八月六日頃の午前一時から下呂町役場で、定例の班長会議が開かれ出席した際、大淵班長として出席していた斎藤章治が会議の始まる少し前に、同人が自分で持つてきた山旅案内一〇部足らずを出席班長の前の机の上に頒つていた。齊藤章治はこの山旅案内を取りだして各班長に頒る時『こんな本があるが、よいことが書いてあるから買わんか、実費の三〇円にしておくから』と言つていた」とのべ、

(2) 日下部康登は検察官に対する供述調書において、「自分は農業で農家班長をやつているが、昭和二七年八月六日午後一時から下呂町役場で開かれた農家班長会議の席上、班長の一人斎藤章治が山旅案内を各班長の前の机の上に頒つて「これを実費で買つてくれ」といつた」とのべ、

(3) 黒木正郎は検察官に対する供述調書において、「自分は農業で農家班長であるが、昭和二七年八月初頃生産目標額の割当に関する議事で農家班長会議が下呂町役場で開催され、会議が終つたので皈ろうとして持物をかたつけていると、私の左側二、三人目に座つていた大淵部落の農家班長斎藤章治が身体をくねらせて私の方へのりだし、『黒木君共産党の資金カンパにしたいで、この本を一冊買つてくれんか、代金五〇円だ』といつて山旅案内一冊を差しだした。斎藤君とは班長会議でつきあいもしていることですから、まあ買つてやろうと思つて代金五〇円を渡して買つた。なお代金額は五〇円より少い額だつたかもしれない」とのべ

(4) 松田梁蔵は検察官に対する供述調書において「自分は農業で農家班長であるが、昭和二七年八月六日頃の午後一時から下呂町役場で農家班長会議が開かれた席上、斎藤章治が山旅案内一〇部位をとりだし、集つていた七、八名の班長の前へ一部宛頒つて『これを実費で売るから買つてくれ』と申した。私は買うつもりでしまいこみ、会議終了後代金を二〇円か三〇円か覚えないが斎藤に支払つた」とのべ、

(5) 牧理平の検察官に対する供述調書において、「自分は農業で農家班長であるが、昭和二七年八月六日頃下呂町役場で開かれた農家班長会議の席上、斎藤章治が私に『これはためになることばかり書いてあつて、非常によい本だから皆に読んでもらうつもりで持つてきたので、買つてくれんか、代金は一部三〇円やがどうか』と云うので、その場で現金三〇円をだして山旅案内一部を買つた」とのべ、

(6) 今井貫一郎は検察官に対する供述調書において、「自分は農業で農家班長であるが、昭和二七年八月六日頃下呂町役場で開かれた農家班長会議の席上、机の上に山旅案内が頒られてあり、会議終了後、斎藤章治が『先の本は一冊三〇円で買わん人は返してくれ、この本は今度の選挙に真の我々農民代表を選ぶために三億の金がいるが、その資金カンパのために売るものだ』と申され、私は共産党がどんな宣伝をしているものか一度読んでみたいと好奇心も手伝つて買う気になり、このほかにも違つた本はないかと思つて、もうほかに本はないかと云うたら、斎藤が『これがある』といつて「益鳥と害鳥」という題目の本を一冊私の方へだしてくれたので、これも三〇円とのことで「山旅案内」と「益鳥と害鳥」各一冊を現金六〇円で買つた」とのべ、

(7) 二村竹松は検察官に対する供述調書において、「自分は農業で農家班長をしているが、昭和二七年八月六日頃下呂町役場で農家班長会議があつた席上、斎藤章治が山旅案内を各班長等の前の机の上に頒つてから、『この本は良いことが書いてあるが、実費の三〇円で売るから買わんか』と申した。会議終了後金は後で払うと斎藤に言つて山旅案内一冊を家に持つて帰つた。」とのべ、

(8) 久保清雄は検察官に対する供述調書において、「自分は農林省農産物検査官として、岐阜食糧事務所益田支所下呂出張所に勤務、当時昭和二七年八月六日下呂町役場で農家班長会議が開かれ、私はその開会直前議場へ行つたが、斎藤章治が山旅案内四、五部を積み重ねて置いており、集つている班長の者も手にとつて見ていた。

その時斎藤君は『どうだ一部三〇円やが買わんか、協力して貰い度い』『どうや買つてくれるか』と言つていた。同年八月二四日午後一時三〇分頃下呂町小川の主食出張配給所田口梅三方に行つていると、そこへ斎藤章治が自転車で来て、私に対し風呂敷包の中から山旅案内一部を出して『破防法一号資金カンパに買つてくれ』といつた。私は『これはいらんで、ほかのやつはないか』と聞くと、同人は『今此処にはない、資金カンパだから買つてくれ』と云い、私が銭がないというと『銭は何時でもよい』と申したので山旅案内一部を受取つた」とのべ、

(9) 中川繁太郎は検察官に対する供述調書において、「自分は新聞発行業であるが、昭和二七年八月末頃購読者の一人である斎藤章治方へ益田新聞を配達に行き、同家の表を入つた所で新聞を斎藤に配達したとき、斎藤が奥から本を持つてきて、私に『君こういう物を買つてくれんか』と申した。この本は山旅案内、益鳥と害鳥、工学便覧という三冊の本であつた。近頃の共産党がどんなことをいうておるかと好奇心もあり、私の新聞を購読してもらつておる義理もあつて、買う気になり、代金はいくらか判らなかつたが、私の腹積りで三〇円出して『これだけで足らんか』というたら、斎藤は不足しているらしかつたが、『まあええは、まあええは』といつて三〇円を受取つてくれた」とのべ、

(10) 中川登志夫は検察官に対する供述調書において、「自分は農業で下呂町農業協同組合理事、農業委員会長及び農事調停委員の職にある。本年(昭和二七年)八月二四日頃の午後四時頃、下呂町農業協同組合の宿直室にいると、組合の理事である斎藤章治が来て、私に対し『こんな本があるが買つてくれんか』といつて、山旅案内一冊を出し、幾らかとたずねると、五〇円でも一〇〇円でもよいと申した。同じ組合の理事であり五〇円位のものを断わるのもどうかと思つて現金で五〇円支払つてその本を受取つた」とのべ、

(11) 原審証人中川貞は「自分は下呂町農業協同組合の専務理事であるが、昭和二七年八月頃右組合事務所で値段は覚ないが、斎藤章治から買つてくれといわれたので山旅案内一部買つた」とのべている。

これら被頒布者の語るところと関係各証拠を総合し、前認定のような本件文書頒布当時の国内情勢を参酌しつつ、ことに被告人斎藤が本件文書を擬装されていたとはいえ、白昼なかば公然と諸所へ持ちあるき、右の農家班長会議にみられるように、出席者の誰彼なしに相手かまわず頒布し、対価の支払をもとめていることなどを考え合せてみると、被告人と被頒布者とのとくべつな思想的つながりを前提とするものではなく、主として選挙目あての資金カンパの意図から、宣伝を兼ねて行われたもので、それ以上の目的を有していたものとはとうてい認めがたい。

(三)  被告人田口早苗に関する事実として、本件文書の被頒布者たる

(1) 亀山幸は検察官に対する供述調書において、「私は日本通運株式会社金山支店車輛課の自動車修理工であるが、三和化学に勤めている頃、共産党というものがどのような政策をとるものか、どういう政策によつて幸福な社会を建設するというのかひとつ研究してみようという気になり、その頃から同僚の上村君からアカハタを借りて読み、或いはマルクスの唯物論を買つて読んだりしていた。

昭和二七年三、四月頃一人の男が私の職場へアジビラをくばつてきた。それが田口早苗であつた。同年八月末頃夜私が自宅へ風呂に行つて、午後八時頃何時も寝泊りする日通の宿直室へ帰ろうとして、大船渡の足立金物店の前の四辻の附近を通るとき、バツタリと田口に行き逢つたところ、お互に『やあ今晩は』と挨拶してから、田口は持つておつたパンフレツトらしいものを一冊『おい、これをやる』といつてくれたので『サンキユー』といつて受取り、宿直室へ一人帰つて見ると、山旅案内であつた」とのべ、

(2) 原審証人升田貞夫は「自分は屑物行商であるが、昭和二七年頃下原村大船渡の亀山自転車店に出入していて、田口早苗もそこへ出入りしていたので知つた。同年一〇月二〇日か二一日頃と思うが、寝ていると、田口がやつてきたので、まあ上れというと、田口は上り、枕許に座り商売は儲かるかというようなことをいい、ポケツトから二、三冊本を出し、その内の一冊をこれを読まんかと言つた。その際田口は本の一部を開けてみて、ここを読んでみよというので、見ると大きな活字で武装の準備と行動を開始せよと書いてあり、そこを二、三行読んで本を下に置いた。そこは山旅案内の一三頁のところであつた」とのべ、

(3) 原審証人中川佳也は、「自分は田口早苗から日本共産党へ入党を勧められたことがあり、田口が配つてくれといつてアカハタ等をもつてきたこともある。問(中川佳也の検事調書における供述と関連せる)田口は軍事組織について指導したということだが、どういうふうに指導したか。答 そこでは軍事行動組織といつたかも判りませんが……。問 その時具体的にお前こうしよとか、こうやれとか言われたり、こういう武器を作れとかいわれたことがあるか。答 言葉にはそのように書いてありますが、そういわれたというわけではなく、細胞をつくつたり、組織をつくつたりせよといわれたことは聞きました。問 資本主義から社会主義へ移る時は暴力革命によるのだというのか。答 はい、そういうことはいわれました。問 そのための武器はどういう物をどうするということは。答 それはいわれなかつたと思います、問 火炎瓶はどうしてつくるのだとか、ダイナマイトはどうするのだという話は、答 言いませんでした。問 共産党について理論的なことは田中さん(田中達郎)から聞き、実践的なことは田口、川上、斎藤等から聞いたとあるが、答 そうだつたと思います。問 実践的というのは、答 細胞をつくつてそれを大きくするのだということで、君は自治委員長だから社会科の時間にはこういう話をして、こういうふうにもつていけ。社会主義にもつていけということでした。問 田口から党の実践的な面の指導は大体党機関紙の頒布範囲を拡大し、特に固定読者を多くつかむようにしなければならないと調書でのべているが、そうだつたか。答 そうでした。問 田口から中核自衛隊をつくれといわれたというが、どういう内容のものだつたか。答 学校の中で始めは五、六人でもよいから細胞をつくり、これを大きくして実践行動していくのだということでした。

問 実践行動とは。答 ビラ張りしたり、演説したりということでした。問 武装せよとか、武器をつくれとかいうことは、答 そういうことは聞きませんでした。問 田口から幾種類もの印刷物を受取つたのか。答 そうです。問 受取つたのは何々か。答、平和と独立のために、山旅案内、アカハタ、水害対策、益鳥と害鳥、前衛等です。証人が山旅案内を他の人に渡す時どういうつもりで渡したのか。答 シンパだという人に普通の雑誌でも配ると同じように配つたわけです。問 普通の雑誌とは。答 前衛のようなものです。問 これを渡してどうして貰おうというようなことは。答 何も思つていませんでした。問 田中先生から受取る時か或いはその前でもいいが、これを読んだ後どうせよ、こうせよというようなことを言われたことはなかつたか。答そういうことはありませんでした。

問 では田口からは。答『これは非合法の本だから気をつけよ』と言われました。……問 田口から中核自衛隊という言葉がそのままでたか。答 そうです。問 それは選挙の時ビラをはつたり、演説などするものだと思つていたのか。答 そうです。問 今は革命とか、暴力により政府をぶつ倒すためには非常手段に訴える時だという話は聞かなかつたか。答 そういう話は田口から聞いていました。問 どういうふうに聞いたのか。答 昔のことで言葉通りには覚えていませんが、趣旨としては暴力革命を起す時期は今だから、そういうための準備を心がけておかねばあかんということだつたと思います。問 それは何度もいわれたのか、何かの話のついでなのか。答 何かの話のついでに言われたと思います。問 今どうせよとが、どういう準備せよとかについて具体的には何か言わなかつたか、又行動計画ということを聞かなかつたか、答 そういうことは言わず『同調者に教えてグループを固めておかなあかん』と言つたのだと思います。問、益田高校では証人の見るところでは生徒の中で証人以上に共産党に協力して活動していた人があるか。答、生徒の中ではそういう人はなかつたようです。生徒では私が一番積極的だつたと思います」とのべているが、これらの被頒布者の語るところと関係各証拠を対比し、前認定のような本件文書頒布当時における国内情勢をも併せ考え、とくに被告人田口については、その被頒布者のうち中川佳也こそ、同被告人の思想的影響をかなりうけていたものと認められるが、右の中川佳也は、何といつても本件文書の頒布当時益田高等学校三年生の、わずか一七歳の少年に過ぎないし、亀山、升田の両名にいたつては、被告人田口の思想に共鳴することもなく、本件文書も黙殺していたことに鑑みると、その頒布行為が宣伝の意図を超ゆるものとはにわかに断じがたい。

(四)  被告人田中達郎に関する事実として、本件文書の被頒布者たる

(1) 原審証人西村吉隆は本件文書頒布当時、益田高校の三年であつたが、原審公判において、「私は昭和二七年五月二五、六日頃から七月末頃迄はほとんど毎日、夏休後九月頃からは週三日、田中達郎先生の下宿へ進学準備のために、英語を習いに行つていたが、先生の本棚にはマルクス理論や共産主義関係の本があつて、私が見た本の名前で現在記憶しているものには、益鳥と害鳥、国民評論、球根栽培法というパンフレツトとアカハタ等があつた。七月末頃と思うが、いつものように田中先生の下宿へ英語を勉強にいき、勉強がすんでから先生と雑談中、先生は本棚であつたか、床の間であつたか記憶ないが、小冊子一冊をもちだして『これを読んでみませんか』といつて渡されたのが山旅案内である。受取つて帰り、それから一日おいて二日目に先生の処へ行つた時、先生は『おととい、渡した本はどうだつた、君の読後感はどうだ』と聞かれ、私はまだ読んでなかつたが、そう答えにくいので『面白かつたです』といいかげんな返事をすると先生は『それでは君の知つている外の人にも読ましてやつてくれ、代金は一部二〇円だ』といわれた。無償ではなく、代金二〇円ではそう沢山あずかつても分けてやることができないと思い、『四部位なら何とか分けてやります』と答えると、先生は『それでは四人分頼む』といわれて山旅案内四部を出してきて渡された」とのべ、

(2) 原審証人池本恕弥は本件文書の頒布当時、益田高校の二年生であつたが、原審公判において、「田中達郎先生は昭和二七年四月から益田高校に教官として赴任してきたのであるが、自分は同年五月頃休講の時間に偶々自修の監督にきた田中先生から自由談話の形で級友とともに、四、五〇分共産主義に関する話を聞かされ、その後同年一〇月初頃、同先生の下宿先を級友荏開典生と一諸に訪ねた際も共産主義の話を聞いたが、そのとき先生は『これを読むと共産党の活動の状況が判るから、読んでみたらどうだ』、といわれ、又『この本は非合法のものだから他の者には見せないように』といわれた」旨のべ、

(3) 原審証人荏開典生は本件文書頒布当時、益田高校の二年生であつたが、原審公判において右池本恕弥とほぼ同趣旨の証言をなし、とくに頒布の状況について「田中先生から山旅案内をしめされ、『これは日共県委員会発行のものだが、これでも持つていつて読んでみないか、余り人に見せてくれては困る』といわれた」とのべている。

(4) なお原審証人中川佳也の証言については前掲のとおりである。これら被頒布者の語るところと関係各証拠を対比し、前認定のような本件文書頒布当時の国内情勢を併せ考え、さらに被頒布者がいずれも当時、益田高校二、三年生のわずか一六歳前後の少年であつて、しかも被告人田中の益田高校への着任後日なお浅く、中川佳也を除いてはその思想的影響もほとんどなかつたと認められることに鑑みると、本件文書は被告人田中が、その抱懐していた共産主義思想の説明の一助として頒布したもので、宣伝の意図を超ゆるものとはとうてい認めがたい。

(五)  被告人古滝富栄に関する事実として、本件文書の被頒布者たる

(1) 和道一夫は検察官に対する供述調書において、「私は農業兼人夫で、古滝富栄、後藤重博は友達としてよく知つている。終戦後二、三年後位から私も議論好きで、古滝と共産主義のこと等について論争したりするので、私に共産党に入れと勧めたり、共産党のパンフレツトや新聞等を読めといつて持つてきてくれた。昭和二七年になつてからも、日本共産党出版部発行のシヤープ勧告で税は軽くなるかというパンフレツト、日本共産党岐阜県委員会発行の日本人のための教育というパンフレツトのほかアカハタ二部を受取つた。パンフレツト二冊は二〇円払つた。

……私はいつもむしろ共産党とは反対の立場に立つてよく論争などするのであります。昭和二七年九月五日前は、私が田圃の草刈をして夕方家に帰り家に入ろうとしていたところ、古滝が自転車で通りかかり、私を見つけて自転車から降り、私の家の前の道端で、自転車につけてあつた黒革鞄から一冊のパンフレツトを出し、『これを読まんか、一冊二〇円だ』といつた。それは山旅案内で発行所が書いてないので、発行所は何処かと尋ね、又最初の一頁を一寸程切りとつてあるのでどうしたのかと尋ねると、『この切つた処に発行所が書いてあるのだが、見つかると具合が悪いので切つたのだ』というようなことを話し、共産党岐阜県支部とか何とかからでているのだと話しておりました。薄暗くなり向うも急いでいるようでしたので、二〇円渡し、古滝君はそのまま帰つていつた。内容は面白くないのでよく読まなかつた。……次は同年九月一二日頃雨降りで田圃の水を見廻つて朝九時頃何気なく後藤重博君の家に立寄りますと、まあ上つて休んでくれといわれ、後藤は引越仕度をしていたが、古滝君もおり雑談していたところ、後藤か古滝かが、今度の選挙には共産党が大部出るだろうという話があり、そうなれば再軍備も軍事基地もできないし、米軍も帰つてもらうことになり平和な国ができるというようなことを申しており、私はこれに対し平和な国にはやはり軍隊が必要だし、内乱を治めるには軍隊も警察も必要なのではないかというと、両名のどちらかが、今吉田政府のやつている再軍備はアメリカの植民地政策の手先の軍隊で……このままでいけば、吾々はアメリカのドレイになるだけだといつて反対してきた。それから後藤の妻の春子が古滝、後藤に『和道さんに仕事を手伝つてもらおまいか』といわれ、後藤は一寸考えていたが、古滝は『手伝つて貰おうといい、私は何か引越の支度かと思い、自分でできることなら何でも手伝いますと申すと、後藤は古滝に『和道にそれでは地下足袋を配つて貰おまいか』といつたので、私は地下足袋つて、そんなよいものがあるのかといいますと、後藤は黙つて座敷を出て物置小屋の方へ行き、間もなく青黒いフアイバーのようなトランクを一つ持つてきた。中に新聞包がありそれを開いて古滝が山旅案内二〇冊を出し、『これを一冊二〇円で在所の人に配つてくれないか』と言つたので、私は『地下足袋とはこんなものか、こんな物を配るのはよう責任は持たんぞ』と断りましたが、古滝君は『そんな物はどうつてことはないし、警察が調べに来たら知らぬと云つておけばよい』と頼み、後藤も口添して頼むので、私も平常親しくしているので、断わりきれなくなり、持つて行こうと思つて、『それでは責任は持てぬが、持つて行く』と答えた。古滝は『お前が配つたことが判らぬように、ほかの名前で二〇冊渡したことにしておくから大丈夫だ』と何か書きとめていた……。その頃のことで、後藤が私に『君は火薬の方をやつているが、雷管の余分が出ないか』とたずねたので私は『雷管の余分なんて出そうと思えばいくらでも出せないことはないが、いつたい何にするのだ、又そんな雷管だけ何にするのだ』とたずねましたところ、古滝と後藤の二人で他の者も都合できたら欲しいのだが、他の者は他から入れるとか、入れてあるとかだからどちらでもいいが雷管を都合して欲しいのだと申した。私が一体何にするのだというと、吾々は吉田政府を倒して人民政府を樹てるには警察とも闘わなければならないが、この前の東京の宮城前広場の事件を知つているだろう。あのように吾々共産党が行動しようとすると、警察が弾圧してくるので、これと闘うには武器が必要なのだというような話をし、又例えば吾々が高山で活動しようとすると、高山の警察だけでだめな場合は、岐阜や名古屋方面からも警察が応援にやつてくるが、それにはサイドカーで来ることもあるし、汽車でくることもあるが、こんな時これを防ぐように汽車を転覆させたりしなければならぬ場合もある。そんな時に使うのだ。どうしても雷管なのだと二人で強調しておりました。又向うが大仕掛で弾圧してくれば、こちらも力には力で闘うより仕方がないのだと申しておりました。……妻が呼びに来たので前述の山旅案内二〇部を持つて帰つた」とのべ、

(2) 玉田和男は検察官に対する供述調書において、「私は当時警察予備隊の志願をしていたが、昭和二七年八月末頃、母が菓子屋をしている私方へ古滝富栄が来てパンを買つてから、前から何度も来て心易い間柄であつたので、『ちよつと休ませてくれよ』といつて囲炉裏端へ上つてきて、何時ものように私に対し共産党の話をして、共産党の良いということや、その頃私が警察予備隊を志願していることを知つていたため、それをやめさせようとする気が、警察予備隊の悪口をいい、二、三〇分話しているうち、小さいパンフレツト(山旅案内)一冊を出して、「自分のところへこういう本が三〇部ばかりきたが、皆に分けてやつてこれだけしか残つていないが、君も読んでみないか』といつた。そういう共産党関係のパンフレツトを私としてはほしいとも読んでみたいとも思わなかつたが、代金は一部僅かに一〇円ということであるし、買つてやれば古滝が帰つていつてくれるだろうと思い、買いましようといつて現金一〇円を古滝君に渡した。……古滝君は帰りがけに『この本を警察へ届けたり、見せたりすると、お前が後でひどい目にあうぞ』とおどし文句をいつた。私はその晩警察予備隊志願のことで役場吏員のところへ行つた際、林巡査に渡してくれと頼んだ」とのべ、

(3) 畑良兵は検察官に対する供述調書において、「私は農業であるが、古滝富栄は小さい時から在所が近く、又神社の氏子の行事を一緒にやつたことがありよく知つている。昭和二七年九月上旬午後七時頃丹生川村三の瀬の和田昭二方へギターの練習等で遊びに行つていると、古滝が訪ねてきて、まあ上れということで囲炉裏で三人が色々話し合つたが、私は古滝が共産党と聞いていたので、その頃は選挙前でもあり、冗談半分に『えらい目の色を変えて歩るき廻つているが、共産党の天下でもとるつもりかと』申しますと、古滝は『うん、うん、そうや、吉田政府を倒して農民や労働者の味方である人民政府をつくらなければだちかん』というようなことを話し、再軍備反対のことや、占領軍を撤退させねばならんと申していた。そこで私は、現在の情勢で占領軍に撤退して貰うと言つたつて簡易にできるものではないし、革命を起すといつても、お前達は武器を持つているわけではないし、難かしい話ではないかという意味のことを申すと、古滝は『いや今は革命の時がきている。吾々の味方には無数の労働者、農民がおり、現に京都市あたりでは、アカハタを小脇にかかえて歩いていないと、一人前ではないとさえいわれている』と申しましたので、私は『そんなことを言つていると縛られるぞ』と申しますと、古滝は『俺の目を見よ、輝きが違うだろう。革命のために命を捨てるなら本望だ』と申していた。そんな話をしているうちに、古滝は、持つていたズツク鞄から新聞包を出し、なかから一冊のパンフレツト(山旅案内)を出し、これ読んでみんか、革命のことを書いてある本やでという意味をいつた。その際代金は一部二〇円とか申していたが、私が金がないといいますと、いつでもよいと強いて請求はしなかつた。古滝はこの本を配つているのを見つけられると、配つた者は警察に縛られるぞといつていた。私は本をめくつていると、中にパルチザンという言葉がでてきたので、何かと聞くと、古滝はパルチザンとは人民軍とかのことで、例えば農民や、労働者、つまり君達のことだという意味のことをいい、例えば税務署が差押にきたような時、持ち合わせの鍬でも何でも持つて敵に対抗し、目的を達成させんようにすることであるといい、どこかの例をいつて差押に来た時、肥柄杓で肥をぶつかけて差押をさせなかつたことがあるというようなことも話していた。……それから私に、君も革命のため働いてくれんかともいわれました。……それから私に、いつかお前はピストルを持つているといつたが、わけて貰えんかとたずねましたので、私は冗談半分にどちらが売国奴か判らんような者に、ピストルなんかわけるわけにはいかぬ。いよいよとなれば、自分が使わねばならぬのだと断りました。……ピストルというのは、私は持つているわけではないが、私が復員してから、どこかで何かの機会に古滝に冗談半分にピストルを持つていると話したことがある。古滝は三〇分位おつて帰つて行つた」とのべ、

(4) 坂口昌平は検察官に対する供述調書において、「私は農業であるが、確か昭和二七年九月初頃の午後九時半頃古滝が風呂敷包を持つて訪ねてきて、私に『話したいことがある』というので、部屋へ通して話を聞いたが、世間話や雑談をしているうち、私が非常に忙しくて困るような話をすると、古滝は『そんなことで忙しい目にあつているより、俺達のように共産党の仕事をやつてくれないか、実はこんな本があるのだが』と山旅案内一冊を渡し、『この本には共産党の主義や主張が書いてあり、革命をする時に必要な本だ』『共産党のパルチザンになつてくれ』『パルチザンとは共産党の兵隊のことで、例えば税務署が差押に来たような場合、竹槍等で自分を犠牲にして闘うのがパルチザンの任務で、それについての詳しいことはこの山旅案内を読めばよく判る』『これは警官にみつかると逮捕されるような本だ』といわれ、代金は三〇円だといわれた。私は共産党には全然共鳴もしておらず、それまで古滝君とは共産党に賛成しているようなことを話したこともないのに、このようなことを頼まれてびつくりして『自分としてはそんなものにはようならぬ。忙しくても今のとおり時代の流れに沿つて働いていくつもりだ』といつて断つた。代金も丁度持ち合わせがなかつたので断つたが、古滝君は『まあいいから読んでくれ』といつて置いていつた」とのべ、なお原審証人として右の坂口昌平は「パルチザンになつてくれとはつきり言われたわけではない」旨証言している。

これら被頒布者の供述と関係各証拠を総合し、前認定のような本件文書頒布当時の国内情勢の認識の上に立つて考察するに、右の被頒布者のうちには、被告人古滝から和道一夫のように雷管の入手を依頼されたという者や、畑良平のようにピストルの譲渡を頼まれたと供述する者や、坂口昌平のようにパルチザンになることを勧められたという者等があつて、被告人古滝が本件文書にでているような軍事組織と軍事活動に積極的な熱意を然していたのではないかと疑われる節もあるけれども、また一面においては和道一夫はつねに、被告人古滝の抱懐する共産主義思想にすこぶる批判的であつて、むしろこれに反駁する立場にあつたのに、同被告人は山旅案内二〇冊を一部二〇円で在所の人に配つてくれといつて頒布先を特定することもなく、同人に託していること、畑良平、坂口昌平にしても、被告人古滝の思想に反論し、掫揄的態度にでていたので、ともかくこれを一度読んでくれといつて山旅案内一部二、三〇円で売りつけていること(もつとも両名とも当時所持金なく、代金を払つてはいない)、また玉田和男にいたつては、同人こそ被告人古滝の思想にいささかも賛成の素振りを示さず、かえつて警察予備隊を志願していることも、同被告人としては知悉していながら、同人に山旅案内一部を一〇円で売りつけており、同人は即日人を介し警察へ届出ていることなどを考え合せてみると、被告人古滝が右被頒布者等に洩したという前記のような積極的言説も、同被告人が同人等の示した冷然たる態度に対し、その抱懐する主義主張についての自己の固い信念とつよい気魂を誇示しようとして用いた言葉のごとくにも解される。してみると、被告人古滝の本件文書の頒布も、宣伝と選挙目あての資金カンパの意図にいでたものであつて、それ以上の目的を有するものとは速断しがたい。

かようにみてくると、被告人等が本件文書の頒布にあたり、その文書の内容について認識を有していたのみか、これに共鳴して宣伝する意図(資金カンパが第一次的意図の場合を含めて)のあつたことも、敢えてこれを否定し得ないものがあるけれども、宣伝の意図を超えて「内乱の罪を実行させる目的」を有していたものとはとうてい認めがたく、結局これと同趣旨にいでた原認定はまことに相当であつて、その認定には検察官所論のような事実誤認の疑なく、また所論のごとき審理不尽の違法はもとより、証拠法則に違背した跡も認められない。所論は畢竟、証拠の価値判断について独自の見解に立ち、原審の適法になした事実認定を批難するものであつて論旨は採用しがたい。

よつて本件各控訴はいずれも理由がないので刑事訴訟法第三九六条に則りこれを棄却すべきものとし主文のとおり判決する。

(裁判長判事 小林登一 判事 成田薫 判事 斎藤寿)

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